益虫・害虫
――自然に善悪はなく、人間が意味をつけているだけだと思う――
農業をしていると、
「良い菌」「悪い菌」
「益虫」「害虫」
そんな言葉を日常的に耳にします。
けれど、畑で土を触り、虫を見つめ、分解の流れを追い続けていると、
こう思うようになりました。
自然はただ働いているだけで、善悪をつけているのは人間のほうだと。
そしてそのたびに、言葉にしづらい「静かな憂い」のようなものを感じます。
■ 発酵も腐敗も、自然から見れば同じ営み
人間は、発酵は良い、腐敗は悪いと分けがちです。
でも、自然側から見れば、
どちらも「有機物が形を変え、循環に戻っていく」だけの現象です。
違いは、
- 主役となる微生物の種類
- その時の環境
- そして、それが“人間にとって”どうか
これらだけです。
自然にとって、発酵も腐敗も区別はありません。
どちらも、生態系の循環を回す大事なプロセスです。
■ 益虫・害虫もまた、人間がつけたラベル
虫についても同じです。
虫たちはただ、
「生きられる環境だからそこにいる」
それだけです。
それを益虫や害虫に分けるのは、
人間の事情によるラベリングに過ぎません。
自然界では、
- アブラムシがいればテントウムシが育ち
- ヨトウがいればカエルが育ち
- 落ち葉を分解する小さな虫が土を作り
- その虫をまた別の生き物が食べる
すべてが循環の一部で、役割に上下も善悪もありません。
私は最近、
腐敗も害虫も称えたい
そんな気持ちにすらなります。
腐敗があるから新しい生命が生まれ、
発酵があるから多様な化学反応が起き、
どちらが欠けても土は育ちません。
益虫がいるから農作物は守られ
害虫がいるから農作物は循環に還る
どちらも必要な存在です
■ 人間は自然を支配はできない。できるのは“寄せること”だけ
畑を見ていると、
人間が自然を支配できるという感覚は、どんどん薄れていきます。
ただ、完全に手放すわけでもなく、
**自然の流れに“寄せていく”**という技術は確かに存在すると思っています。
川の流れを考えてみるとわかりやすいです。
- 水を止めることはできない
- 流れの向きを根本から変えることもできない
- でも、少し分流させたり、緩やかにしたり、勢いを使ったりはできる
自然そのものは変えられないけれど、
その力をうまく利用する方向に寄せていく。
農業において、機械や資材はこの「寄せる力」を高めるためのものだと思っています。
自然とぶつかるためでも、自然をねじ曲げるための道具でもなく、
自然の流れに人間の営みをそっと馴染ませるための補助具という認識でいます。
■ 微生物資材は“占有率をほんの少し寄せるため”のものだと思う
最近の農業では、
糸状菌、乳酸菌、納豆菌、光合成細菌、放線菌など
さまざまな微生物資材があります。
私の感覚は、
それらを「入れたら畑がその菌だらけになる」
とは思っていません。
自然界の菌相は膨大で、そのバランスは人間が完全には触れられません。
圃場の場所、日当たり、水はけ、歴史などからその圃場の土着菌叢はできていると思います
だから、微生物資材の役割は
“支配”ではなく、“菌叢をほんの少し寄せること”
だと考えています。
環境が整っていれば、
その小さなきっかけが連鎖して、
徐々に分解や発酵の方向性が変わっていく。
でもその変化はゆっくりで、即効性があることはほとんどないのではないかと考えています。
人間ができるのは、
あくまで「方向づけ」だけです。
■ 自然は大きくて、人間は小さい。それでも寄り添って生きていきたい
農業をしていると、本当に思います。
自然は偉大で、人間の思惑を超えて働き続けています。
発酵も腐敗も、虫も菌も、すべてが同じ営みの中にあります。
その大きな循環の中で、
人間だけが「良い・悪い」を決めたがる。
それはどこか、自然の姿に合っていない気がして、
私はときどき静かな憂いを覚えます。
でも同時に、
自然に寄り添い、少しだけ方向を寄せながら生きていく農業
には、深い安心感があります。
自然の働きを尊重し、
その力に委ねながら、
少しだけ手を添えていく。
そんな農業を、これからも続けていけたらと思っています。
🌱 畑にいるよ
落ち葉を分解する虫や菌を眺めていると、
「善悪なんて人間の都合だよな」と静かに思う時間があります。

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